順調に東を制圧していく。
西は畠山が下ったということで、続々と我が軍門に下ってくる。
戦闘らしい戦闘もなく9月頃には島津家も臣従。

1564年10月。千葉家降伏。
さらに李朝の九州攻略の前進部隊が降伏要請。当然無視。
ここで承諾したら、国内に朝鮮領が残ってしまうではないか!
そんなことは断じてまかりならん!!
(将軍様は大変ご立腹のようです)

同12月。国内から朝鮮軍一掃。
ついに室町幕府復権だ!

1565年1月。朝鮮出兵開始。
総兵力30万、鉄砲3万丁の大軍団だ。総大将は、真田昌幸(幸村の父ちゃんだね)将軍家・西園寺家の合同軍である。
対する敵は、総兵力10万鉄砲300(300ってw)
史実でも朝鮮半島ではこのころは鉄砲なんて皆無でした。
さて鉄砲ですが、実は生産はしていたが実戦配備はこれが初めて。千葉家も8000丁持っていたけど、これくらいじゃどうにもならんしね。国内で一番多かったのは島津家18000丁でした。流石だ!

しかし1565年頃いうたら、信長が美濃に侵攻してるころだよなぁ。朝鮮出兵が史実よりも30年早いのは、ゲームだからしょうがないけど。
ちなみに関ヶ原の戦いでは両軍あわせて10万丁の鉄砲があったそうな。
当時の日本は全世界の9割を保有していました。


序盤戦は快進撃が続く。
降伏要請も毎月のように来るが、すべて無視。当然だ。
李舜臣もこのころ捕虜にする。
この方は韓国では大変有名なのですが、当時は何回も逮捕されて牢獄に入れらてたそうです。
武官よりも文官に重きを置いていたせいでもあるでしょう。
2度目の朝鮮出兵当時も牢に入れられてましたが、秀吉が攻めてきたら前線に復帰させられました。
対馬海峡で日本の補給船団を沈めて活躍しました。韓国ではまさに英雄です。凄いです。最後の海戦でも日本に大勝利しました。(ということに韓国ではなっています。島津義弘に戦死させられた事なんぞ無視されています)
詳しくは
http://www.pp.iij4u.or.jp/~butakai/noryan.htm
ここを参照のこと。
はっきり言って、義弘殿凄すぎます。
実際に義弘も朝鮮に出兵させたかったんだが、CPUに指示しても全然動きやがらねぇ(ハゲた

そのころ室町幕府13代将軍足利義輝ご本人様は、堺の町で茶の湯を楽しんでおられます。
(ようするに、ほとんどCPU任せってこった)

1566年8月
京畿道の李氏朝鮮直轄漢城(現ソウル)の一歩手前の水原(ワールドカップの試合したよね)で一進一退の攻防。
朝鮮軍本隊を引きつけている間に別働隊が江原道を北上(半島の東側、ソウルの東ですね)

真田昌幸から書状が届く、曰く「鉄砲を大量に送ってくれますよう申し上げ候」(この部分は脳内妄想です)
1567年1月 とりあえず7000丁の鉄砲を送る。(史実でも、鉄砲を本国から送りまくってたそうです)
現在の鉄砲生産量は月産1700丁だ。まかせんかい!!


1567年6月郡の再編を行う。柴田勝家軍団を新たに作り、さらに半島を北上させる。
同年7月ついに水原占領。いよいよ漢城だ。
同年8月李朝の本拠地漢城占領。
同年10月李氏朝鮮滅亡。
残りは残党勢力のみ。

1568年2月。平壌落城。
同年8月。朝鮮平定完了。
同年9月。国内の反乱勢力も平定。

天下を全て平らげることに成功。

義輝は、室町幕府中興の祖としてその後20年にわたって将軍職を勤めることになる(もちろん脳内妄想)
室町幕府はこの後300年間にわたって繁栄を極めることになる。
領土は日本本国はもとより、樺太・アリューシャン列島全域・朝鮮半島・沿海州・満州・台湾を領すまでになったという。(完全に脳内妄想)


しゅーりょー
18年と少しでした。
もうお腹いっぱい。ごちそうさまでした。


心おきなく、明日から大阪に行って参ります。

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